初期AISAS
ベルコスモスには宇宙物理学の研究室と航空宇宙工学の研究室の2つを置き、初期の職員は、宇宙物理学研究室はアリビナ・エイゼンシュテイナ、セルゲイ・キリーロフ、イワン・グラツキーの3人、航空宇宙工学研究室はアルテミー・パステルナーク、アンナ・リトヴィンツェヴァの2人の、5人だけでした。リワ・クリショワ、ニコライ・ジェコフスキーは外部の協力者としてアリビナ・エイゼンシュテイナの計画に加わり、この新しい研究機関には加わりませんでした。
エイゼンシュテイナ博士はベルコスモスと共に、再びソ連の宇宙開発事業、世界の宇宙開発競争に挑みました。しかしこの時代のソ連の宇宙開発事業は、30もの開発プロジェクトを抱え込み、各設計局の主任が互いに争っていたために、激しい内部競争を引き起こしていました。1964年には、ニキータ・フルシチョフの失脚を受けて、セルゲイ・コロリョフは有人飛行計画の完全な指揮権を与えられました。ベルコスモスの当初の目標は、同一にして、有人宇宙飛行と月面探査でした。そのためベルコスモスは、セルゲイ・コロリョフの設計局に追随する形でこの競争に加わりました。
ベルコスモスは設立後、徐々に職員を増やしていきました。その中でコスモス衛星の打ち上げに参加しましたが、失敗に終わり、やはり成果は上げられませんでした。1966年になると、セルゲイ・コロリョフが死去し、ソ連の宇宙開発競争は混乱に包まれました。そんな中で、ベルコスモスがソ連の宇宙開発とは無関係に設置された研究所であったために、ソ連政府より技術を盗んだとされ、エイゼンシュテイナ博士は捕らえられるところでした。更に、エイゼンシュテイナ博士が日本人と子を設けていたことと、ロシア正教会の信徒であったことも捕らえられる要因となりました。これを受けてエイゼンシュテイナ博士はドイツへ逃亡しました。この時代のベルコスモスの代表はアリビナ・エイゼンシュテイナでしたが、指揮はアルテミー・パステルナークが執っていました。この事件があり、ベルコスモスは活動停止を余儀なくされました。
メオロ仮説と新たなAISAS
エイゼンシュテイナ博士は自身の嫌疑が晴れるまで、ドイツの航空宇宙工学者ブルクハルト・ドゥーデンヘッファーの許にいました。ドゥーデンヘッファーはエイゼンシュテイナ博士がかつて所属していた設計局の元職員でした。エイゼンシュテイナ博士は、解雇後祖国のドイツに帰国したドゥーデンヘッファーに色々な話をしたとされています。その中で、ドゥーデンヘッファーはベルコスモスの活動に非常に興味を示し、後に13番目の職員となりました。
エイゼンシュテイナ博士は嫌疑が晴れたころ、ソ連に戻ると、リワ・クリショワ、ニコライ・ジェコフスキー等他数名の科学者と秘密裏に会いました。そこで地球の起源や素粒子世界に関する議論を行い、1946年にレジナルド・アルドワース・デイリーが提唱した「原始地球への天体衝突」に注目しました。この時に会談の席にいた脳科学者のルスラン・アズレートヴィチ・チェルヌィフによってメオロ仮説(Меволло Гипотеза)が話されました。メオロという言葉の語義は「知識」や「恩恵」であるとされ、ルスラン・チェルヌィフの造語であると考えられています。メオロ仮説は原始地球に天体が衝突した際に、その天体にあった様々な「恵み」が地球にもたらされたとする説でした。この仮説は彼等の中で熱心に議論されたとされます。この後にアリビナ・エイゼンシュテイナはメオロ仮説をベルコスモスに持ち帰ると、ベルコスモスに新規に神秘科学研究室を設置し、新規に参入したルスラン・チェルヌィフを神秘科学研究室の室長としました。この頃からエイゼンシュテイナ博士は、スピリチュアルといわれるような事柄の研究に熱心になっていき、ベルコスモスもそのように変わっていきました。ソ連の宇宙開発の技術を盗んだとされたことなどもあり、ベルコスモスは宇宙開発競争に戻れなくなっていました。この一般にスピリチュアルといわれるような事柄は、ベルコスモスではまとめて「神秘科学(Мистическая Наука)」と呼ばれました。これはメオロ仮説によってアリビナ・エイゼンシュテイナが神を見て、その神を知り近づく研究のためにメオロ(神秘)を追ったとされます。
さらに、ルスラン・チェルヌィフはエイゼンシュテイナ博士に人間の共感覚性の話をし、共感覚性を用いた兵器の開発をすればソ連内での地位が確立できるのではないかと話したとされています。この話を受けて、自身の宇宙開発分野の研究に限界を感じていたエイゼンシュテイナ博士はベルコスモスの目的を変更しました。エイゼンシュテイナ博士は神秘科学研究室の目的を、メオロ仮説の立証と能力開発、そして共感覚性を利用した兵器の開発と定めました。これによって、ベルコスモスは新しい研究機関として生まれ変わりました。
晩年と解散
ベルコスモスの目的を変更した後も、コスモス衛星の打ち上げを中心に行っていましたが、ことごとく失敗に終わり、これといって成果はありませんでした。その状態が長く続き、1978年にアリビナ・エイゼンシュテイナは病に倒れ、ベルコスモスの今後についてアルテミー・パステルナーク等と協議しました。エイゼンシュテイナ博士は闘病生活の後に回復しましたが、1981年に代表の座を退き、アルテミー・パステルナークを新所長に任命しました。アルテミー・パステルナークは、目的の変わり果てたベルコスモスを見て、宇宙開発事業の継続は困難であると判断し、宇宙物理学研究室と航空宇宙工学研究室を併合し、宇宙科学研究室を新設しました。これに加えて、これ以前に参入したドイツ人やこの後に参入したイギリス人などに合わせて、研究所の名称をАльбина Институт Космических Наук «БЕЛКОСМОС»からAl’bina Institute of Space and Astronautical Science (AISAS)の英語名称に改称しました。
晩年、エイゼンシュテイナ博士はソ連を離れて日本の家族の許を訪れました。アリビナ・エイゼンシュテイナの夫は既に永眠しており、再開はできなかったと伝えられています。アリビナ・エイゼンシュテイナは娘とその家族と日本国内旅行をし、熱海の水葉亭に宿泊しました。アリビナ・エイゼンシュテイナは晩年に神秘科学研究室の研究を基に霊体のプラズマ仮説を提唱していたとされています。アリビナ・エイゼンシュテイナは1991年1月28日に日本の北海道で永眠しました。後にこのことを知ったアルテミー・パステルナークは、ソ連の崩壊もあり、1991年12月14日にAISASを解散にしたと、この時のAISAS職員であった、現在のAISASの職員であるドミトリー・トカチェンコの祖父によって伝えられています。